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花見川の記憶

定例会終了後、その足で横戸にある仁兵衛さんのお墓に報告に行きました。今回の定例会で、私は花見川の歴史を取り上げ、その中で仁兵衛さんのエピソードに触れたからです。

印旛沼の水を東京湾へ流すための工事は、江戸時代に三度行われました。
いずれも失敗に終わっています。

中でも、天保年間に行われた工事は、その過酷さが筆舌に尽くしがたいものだったと伝えられています。
庄内藩(現在の山形県)から多くの人足が駆り出され、仁兵衛さんもその一人でした。

彼はこの地で病に倒れ、命を落とします。

当時、死者は土葬が一般的でしたが、遠方で亡くなった場合は火葬し、遺灰を故郷へ持ち帰ることも多かったようです。
しかし仁兵衛さんは、遺言で土葬を望みました。

墓石の側面には、こう刻まれています。

「後の人、憐れんで、これを発(あば)くことなかれ]

庄内藩から動員された人足のうち、命を落としたのは19人。
その中で土葬を望んだのは3人だけだといいます。
残る2人のお墓がどこにあるのかは、今も分かっていません。

仁兵衛さんは、故郷に帰ることを望まなかったのでしょうか。
なぜ、遠く離れたこの地に骨を埋めることを選んだのでしょうか。

死の直前、彼の胸中を去来していたものは何だったのか。
それを知る術は、もうありません。

墓前には、江戸時代初期の通貨が置かれていました。
時の流れが一瞬、ねじれたような感覚に襲われ、思わず目まいを覚えました。

そして、お墓のそばにはむくの木が立っています。
むくの木は、本来、寒冷地には自生しない樹木です。

言い伝えによれば、
荘内藩の人足が、この地から種や苗を故郷へ持ち帰ったのだそうです。

そのむくの木は、時を経て根づき、
いまでは山形県の天然記念物となっています。

人は帰らず、
けれど木は、故郷へ帰った.

そんなふうにも思えました。

そのとき、たまたま墓地を散歩していた80代の女性が、こんな話をしてくれました。

「ああ、そんな話、あったみたいだね。
ときどき、北の方から、お墓参りに来る人もいたよ」
静かな語り口でしたが、その言葉は、確かに今と過去をつないでいました。

天保の時代、水野忠邦が諸大名に号令をかけたこの工事は、
幕末、西洋列強により江戸湾が封鎖される事態を想定し、
内陸から食料や物資を運ぶための国防目的でもありました。

1843年に着工されたこの構想は、
形を変えながら、最終的に1968年、治水事業として完結します。

一人の人足の死から、国家の構想へ。
そして江戸から現代へ。