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櫻井崇と印旛沼干拓工事(花見川号外番)

花見川の工事に尽力した先人の足跡を辿ってみました。

同行してくれた友人のブログを再掲いたします。

 

7月13日は千葉市議会第2回定例会の最終日でした。

私は最終日も傍聴をさせて頂き、その後は桜井たかし議員に同行をして花見川区横戸町へ。

「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用」で病死された仁兵衛さんのお墓参りに行って参りました。

 

そもそも「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用」とは何なのか。

利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用とは、印旛沼堀割普請(印旛沼干拓)の事を指します。これでもまだ難しいですね。

平たく言えば江戸時代の「花見川の普請工事」の事を指します。

今は穏やかな流れを保っている花見川ですが、江戸時代は氾濫をして大変だったんですね。

そこで幕府は「開墾」・「治水」・「水運」の利益を得る為に3回に渡り大工事を推し進めます。

普請は「享保」・「安永・天明」・「天保」期に行われ、多数の犠牲者を生んでいます。

中でも病死した仁兵衛さんが携わった「下総印幡沼古堀筋御普請御用御手伝」は難工事でした。

 

 

次に「仁兵衛」さんについて捕捉します。

仁兵衛さんは出羽国庄内藩(現在の山形県鶴岡市)の人夫です。遊佐郷大服部村(現在の山形県遊佐町)出身で、総計1,463人いた人夫の中の1人。

では1,463人もいた人夫の中で、なぜ仁兵衛さんのお墓があるのか。

それは亡くなられた庄内藩の人夫19人の内、50才以上が11人もいたからです。その11人の中の1人が仁兵衛さん。

国元を7月13日に出立し、約2ヶ月後の9月24日に病死しています。享年57才でした。

この経緯から見ても、下総印幡沼古堀筋御普請御用御手伝が如何に過酷だったか分かります。

 

お墓の正面には「荘内大服部村仁兵衛墓」と刻まれています。

続いて右側面にはこう刻まれています。

「下総印幡沼古堀筋御普請御用御手伝人夫の墓なり、天保十 四癸卯七月十三日羽州庄内を出て同九月二」

続けて左側面にはこう刻まれています。

「十四日病死して爰(ここ)に葬る、後の人憐みてこれを発(あば)くことなかれ 法名観阿道哲信士」

 

ここで一つ謎が残ります。なぜ亡くなられた19人の内16人は「火葬」されたのに、3人は「土葬」だったのか。

江戸時代後期になると火葬は一般的になっていただけに謎です。

 

庄内藩は家臣や人夫を収容する元小屋を横戸村字南山(現在の花見川区横戸町)に建てています。

仁兵衛さんのお墓が同地にあるのは、上記の元小屋があった場所だからと推察ができます。

敷地内には20数棟の小屋が建てられ、その中に多くの家臣や人夫が劣悪な環境下に置かれました。

当時の普請記録からも、過酷な労働環境が見て取れます。

 

拍子木とほら貝によって七つ時(午前4時)に起床。食事の後、六つ時(午前6時)のほら貝で整列し、次の太鼓で工事区間(普請丁場)に向かいます。人夫は四つ時(午前10時)、九つ時(正午)、八つ時(午後2時)のほら貝で休息。そして、七つ時(午後4時)に工事を終了して小屋に戻るという生活を繰り返していました。

幕府が工期の短縮を各藩に申し渡した事も人夫達にとって不幸だったと言えます。

 

先ほどの庄内藩の小屋ですが、安普請であった事が当時の記録からも分かります。

屋根は雨漏りがひどく、雨の日は建物中で傘を差す必要がありました。

風が吹くと簀の間からゴミが侵入し、ムカデ・トカゲ・アリが沢山いて噛みつかれた者もいたそうです。

また当時の衛生状態ですから「疫病」の危険性もあったのではないでしょうか。

上で火葬16人で土葬が3人と書きましたが、火葬の方が多かったのは疫病対策だったかもしれません。

 

利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用については、今後もブログで取り上げてまいります。